カンボジアの素:タケオはなにもないところでした

この記事は90年代にミニコミとして出版したガイドブック「カンボジアの素」に書いた記事を復刻したものです。後年、情報を追記したりしていますが、全体的に古すぎ、記述が攻撃的で、正確ではありませんので、読んで懐かしむ程度でお願い致します。

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タケオはプノンペン市内から約50キロ。道もほぼ一本なので迷う事はない。自分でバイクを借りていくのが一番いい。もしくは何人か同行人を集め、タクシーをチャーターして行くのもリッチでいい。

車なら片道2時間程度で日帰り簡単。もちろんタケオにも宿泊施設はあるので向こうで泊まってもいいかも。でもねえ、ホント、自衛隊の駐屯地跡を見に行く為だけならやめた方がいいです。

地方の町としてのタケオを見にいくとか、途中の村々を見たいとかそういう目的ならば意外と楽しいと思う。プノンペンから近い割に雰囲気がググッと違うし。田舎好きにはたまらないねこりゃ。

今日は何しよーかなーなんて思っていた矢先、キャピトルにたむろするバイクタクシーの兄チャンが、「タケオに行こう」と誘ってきた。値段を聞くと25$とか言い出す始末。相場からして5$でも多いくらいだと思いつつも、面倒なんで15$という事で話しをつけた。

正直いって、この時点で、私は3つの間違いを犯していた。まず一つは、沢山いるバイクタクシー兄チャンの中からこいつを選んでしまった事、こいつのバイクがオンボロなのを見抜けなかった事、そして一番は、出発の時間が11時をまわっていたこと。

とにかくコイツのポンコツバイクの後ろにまたがり、「1時間半もあれば着く」などという言葉を信じて私は一路、国道をタケオへ向かって走ったのだった。 30分程走っただろうか。途中、ここぞとばかりにスコールにやられる。なんとか小さな村へ避難して、遅い昼食。なんだか得体の知れない肉を煮た物とご飯とコーヒーで3$も取られた。まあそれはいい。ガマンしよう。雨が止んだのは、1時間以上経ってからだった。

舗装されていない赤土丸出しのデコボコ道をバイクはトロトロ進む。時速40キロも出ていない。もっとスピード出せと要求するが、これ以上は出ないという。ああ、昨日キリングフィールドまで行ってもらったオヤジのバイクは速かったのに……。

しかし、周りに広がる風景は、プノンペン市内のごった返した排煙の風景とは比べ物にならないほど清々しく爽快だ。川で飯を取ってる人々や、水田をうろつきまわっているオヤジ達の姿に、なんとも惹かれてしまう。ああ、ボクも一緒になって、ふんどしいっちょで赤茶色の川を思う存分泳ぎたい。しかしバイクはガタゴト進む。

途中、検問らしき所が何ヶ所かあったが、日曜日だったからか誰も人はいなかった。ほんの何ヶ月か前までは簡単には入れなかったんだろうね。でも、今はオーケー。

自衛隊の方々も、かつてはこの道を毎晩のようにさかのぼって70ストリートにくりだしていたのかなあ。なんて。感慨深いっスね。

ケツの感覚が消えてからしばらくして、ふくらはぎまで痛みが回った頃、やっとタケオの日本自衛隊駐屯地(跡)に到着した。時刻は3時過ぎ。入り口には日本語の看板が残っていた。写真やビデオを取ったりしていたら、なんか車がやってきて、私の前で止まった。あ、まずかったかな。

なんて事はなくて、なんとどこぞのプレジデント御一行様だった。実は国名が聞き取れなかっただけなんスがね。はは。しかし、なんか偉そうな人なのに施設を案内してくれたりと親切極まりでラッキーだったが、早口の英語で言われてもその殆どは聞き取れなかったという有り様。

ここには、自衛隊の方々が使用していた「住友・フレキシブルハウス」というプレハブが、荒れた大地の上に沢山放置されている。プレハブといっても全部にエアコンがついていたりして、自衛隊の過酷な生活が忍ばれる。なんでも、日本政府はカンボジア政府が職業訓練センターとして使うという名目で、この施設を丸ごと残していったという事だ。なるほど、そこらじゅうに日本のジュースの空き缶の朽ち果てたゴミが散乱していたりする。

そんな事はいいのだが、実際、ここは現在職業訓練センターとしては全然活動していないようで、あくまでも計画が先にあるというだけらしい。というわけで、私が行った時は、わけのわからない人達がプレハブの中で薪を使ってメシを作っていたり、子供がフラフラしてたりと、それは有効に利用されている様子だった。

ここにある日本製プレハブはタケオの市内にもいくつか散らばっており、単なる民家となっていたりする。いや、素晴らしいこってす。さすがカンボジア人。

別段、何の感動もないまま、「早く帰らないと夜になってしまう」とせがむバイクタクシーにのって、プノンペンへと舞い戻る事になった。4時をまわっていたが、まだまだ明るかったのでそれ程急ぐ事もないだろうと思っていた。

しかしなんと、バイクのチェーンが切れてしまった。やだあーもー。私達はしかたなく、テクテクと近くの村まで歩かねばならなかった。日が暮れるのはあっという間。遠くで轟くカミナリの光だけが頼りだった。

30分歩くと村があった。しかし、そこにはバイクの修理を出来る人間がいなかった。しかたがないので次の村まで歩き出した。どのくらい歩いたか知れない。ふと気がついたのだが、無数の小さな光が田んぼの上をゆらいでいる。ホタルだった。

次の村に着き、ロウソクの火の明かりを頼りになんとか修理をすませ、バイクは走り出した。途中、キチガイみたいな暴走バイクの若い兄チャン連中と出くわす。タクシー兄チャンは背後を気にしながらビクビクと運転。

夜の村の娯楽はテレビだ。村に幾つかしかないのだろう、夜の村をテレビを求めて徘徊する家族の集団を見る事ができる。こういった習慣は大好きだ。結局、プノンペンに着いたのは夜9時を過ぎた頃だった。

着いた直後、バイクタクシーの兄チャンは私に「思ったより時間がかかったから30ドルくれ」とぬけぬけと言い放つ。ああ、たしかに大変だったね。ごくろうさん。私は15$を無言で渡し、追いかけてくる彼を無視してホテルへ戻った。(1994・下条)

タケオの情報も未更新。はっきりいって、いまタケオなんか行ってもなんもないと思います。そういえば、一回殺した鶏を生き返らせる新興宗教の本部があるらしい。(2004)
(文・アジアの素編集部)



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